平成31年(2019年) 2月 NO.2

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載します。まずは、阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地を紹介したいと思います。忌部神社に続く山川町編の第2回は「玖奴師(くぬし)神社」です。

忌部神社の七摂社の一つ「玖奴師神社」

●場 所 - 吉野川市山川町忌部山(JR山瀬駅より車で5分)
●祭 神 - 大国主命

 「忌部神社」の境内東の忌部谷を隔てた道路沿いには手作りの標識が立てられ、そこから群木が繁る山の小路を50mほど下ると小祠が見えてくる。この祠こそが「忌部神社」の七摂社の一つ「玖奴師(くぬし)神社」で、大国主命を祭神とし、山王権現とも呼ばれている。『忌部神社正蹟考』の「山崎ノ史蹟ト傳説」によると、「忌部社の東北で青樹社の東側山腹にある。俗に山王権現と称す。阿淡両国神社録によれば、祭神は大国主命とも、麻生家の伝によれば、祭神は少名彦那命・大国主命と云っている。当社は何時の世よりか、社殿も荒廃してしまい、社地もおぼろげとなり、村人でも知る人は稀で、今は路傍に石を積み、その上に僅かばかりかの小祠を建てるのみであり、路行く人は、誰も問う由もない有様で誠に恐れ多いことである。」と、由緒ある神社が荒廃している様は目を覆うばかりであると嘆いている。


 「忌部神社」の七摂社は、古来より「七社巡り」と称し、毎年正月15日の未明に、全村全戸あげて巡拝して正月送りをする習慣があった。戦時中は武運長久祈願のため、日の丸の旗をもち、自治会が各戸交替で参拝していた。その順路は、参詣する氏子の家を中心に最寄りの七摂社の一つより始められた。その際、「忌部神社」に面して右廻りとし、その順路は、一定の「お七社道」なる参道を歩く慣わしであったが、その慣習は長年にわたり途絶え、荒廃。その慣習も忘れ去られていたが、平成26年に「山川の文化財を守る会」がその古道と慣習を復活させた。現在は、「お七社詣りの由来について」の看板が立てられるに至っている。


「忌部神社」の七摂社と八摂社

 なお、七摂社とは、建美社(岩戸)、志良夜末比売社(白山)、稚宮社(忌部山)、淤騰夜末社(祇園)、玖奴師社(忌部山)、牟羅久毛社(流)、岩戸社(岩戸)の七社のことである。同「山崎ノ史蹟ト傳説」によると、永享2年(1430年)11月日附の阿波領国神社録という旧記には、忌部神社の摂社は上記に加え、川島町桑村の伊加々志社をあわせ8社が記されている。本来は八摂社巡りであり、「七社」とは山川町の旧山崎村に鎮座する神社(小祠)のことであった。
 また、同「正蹟ノ遺蹟遺物的考察」にも、八摂社が記されている。そこには、阿波両国神社録所載の忌部神社の八摂社があり、建美社は俗に王子権現、志良夜末比売社は俗に白山神社又は白山権現、稚宮社は峯石に在り、伊加々志神社は川島町桑村字伊賀加志に、淤騰夜末社は俗に天王社と云い西久保天王山腹に、玖奴師社は俗にクヌギと訛り称せられ忌部社の東北山腹に在り、牟羅久毛社は俗に雲宮と云い字雲宮に在り、岩戸社は忌部社の東北山麓の字岩戸に在り、建美社は俗に忌部社の舊址黒岩に在った時、現在忌部社の地である字王子にあり、寛永年間に土地が崩壊し忌部社が現在の地に奉祀された時に同所に奉祀された。忌部神社が国幣中社になるに及び岩戸社の境内に遷座されたとある。

語句解説

★『忌部神社正蹟考』...
1942年(昭和17年)12月5日に池上徳平(1879~1943/明治12年~昭和18年)が刊行。池上徳平氏は旧山瀬村(吉野川市山川町)生まれ。日露戦争の功績で単光旭日章を授賞。大正9年に少佐としてシベリアに出兵。昭和5年に大佐に任命される。待命後は、阿波郷土史会長、山瀬町忌部神社崇敬会会長などを歴任。業績として『山瀬町の伝説と史蹟』、『国幣中社忌部神社正蹟考』、『忌部族の研究』の著がある。この池上徳平の国幣中社『忌部神社正蹟考』の復刻版が、平成麁服貢進協議会会長、阿波スピンドル会長の木村悟氏が、池上氏の業績を後世に残そうと平成20年に復刻版を出版した。

★麻生家 ...忌部神社の神官家・村雲家が江戸期に麻生家と改めた。