平成31年(2019年) 3月 NO.3

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地を紹介したいと思います。第3回は「青木樹の立石」です。

青樹社の立石~天日鷲命の廟所~

●場 所 - 吉野川市山川町忌部山

 「忌部神社」の参道入口より東、建設省「砂防指定地忌部谷」と書かれた標識から、忌部谷の小谷に沿って30mほど登ると、結晶片岩の巨巌上、古木が群生する中、古びた柵に守られた聖域の中、高さ約1.5mの緑泥片岩の立石が祀られている。この忌部谷は、「日鷲谷」であろう。『阿波志』には、「日鷲谷、在忌部祠東古木群生」とある。同地は、「忌部七廟所」の1つ[青樹社(あおきのもり)]とも[天日鷲命(あめのひわしのみこと)の陵墓]とも云われている。


 『忌部神社正蹟考』の「正蹟ノ遺跡遺物的考察」、「青樹社と“をがたまの木”」の項には次のようにある。

 「忌部神社の東北麓の社の中に一本の立石があり。これを青樹社といい、忌部七廟所の一つと伝えられ、此処は古墳のように思える。ここに古来“をがたまの大木”があったが、明治初年に枯死したと云う。昨年新たに此処に苗木を植え古跡を保存した。此処は俗に天日鷲命の陸であり、天日鷲命の陵墓ではないか。それは忌部氏に関係する人の墳墓であること疑いなし等々。」


 また、「山崎ノ史蹟ト傳説」の青樹社と“をがたまの木”には、次のようにある。

 「忌部社内の織殿の前を東に出て、谷に沿って下ると谷入口の東側に古木叢生する社がある。ここは天日鷲命の廟所なりと伝わる。往古より宮殿はなく立石のみある。此処に古来より忌部の大神が愛した“をがたまの木”があり、常に緑をなし、里人が青樹社と呼び、忌部廟所七か所の一つと伝わる。その木は江戸期の文政年間(1818~30年)に朽ちて倒れてしまった。また、中古の頃、寺に仕えていた下僕にこの木の枝を切らせたところ、たちどころに死んだ。後に、その切り口が朽ちて自然に水が湧き出し、霊水となって里人の諸病を治したという。その後、神主秀俊(かんぬしひでとし)が京都にいたころ、京都吉田殿御内神祇権少副殿にこのことを語ると、大変同情を寄せられ、日向国より苗木を取り寄せて、古くから木のあった傍らに移植した。この時、権少副中臣連胤が次の歌を詠んでいる。

 天日鷲命をかくしまつりし処なるみけむかふ阿波国忌部山隠谷(かくれだに)に有し、をか玉の一本はくぬち(国内)に類なき霊木なりしか近き頃枯れ果ぬ、そを植次かんとして、天つたふ日向の国より採よせし事もあれなと、其の裔なる秀俊か語りしを聞きて悲しみにたえず、こひかのしるしとせむ雅生を送り、なほ昔にかへりて八十運と共に栄え人事を思ひやりて、をかまたの木種をいまど授けつる われ五十猛の神ならぬと、今よりの久末かけてゆぎことの ふかきにはろは神ぞしるらむ」神祇権少副 中臣連胤

 この「をがたまの木」とは、[小賀玉木]とも表記され、モクレン科に属する常緑喬木(じょうりょくきょうぼく)で、招霊(しょうれい)の木として神社の境内などに植えられる。その「をがたまの木」は残念ながら現存しないが、青樹社付近の畠地は検地帳に「魂所(こんど)の木」とある。この立石は、阿波忌部氏の鎮魂や何らかの祭事に纏わるメンヒルであり、阿波忌部の遺跡を代表する貴重な文化遺産となっている。

語句解説

★『忌部神社正蹟考』...
1942年(昭和17年)12月5日に池上徳平(1879~1943/明治12年~昭和18年)が刊行。池上徳平氏は旧山瀬村(吉野川市山川町)生まれ。日露戦争の功績で単光旭日章を授賞。大正9年に少佐としてシベリアに出兵。昭和5年に大佐に任命される。待命後は、阿波郷土史会長、山瀬町忌部神社崇敬会会長などを歴任。業績として『山瀬町の伝説と史蹟』、『国幣中社忌部神社正蹟考』、『忌部族の研究』の著がある。この池上徳平の国幣中社『忌部神社正蹟考』の復刻版が、平成麁服貢進協議会会長、阿波スピンドル会長の木村悟氏が、池上氏の業績を後世に残そうと平成20年に復刻版を出版した。

★神祇少副...
神祇官は古代律令制で朝廷の祭祀を司る官で、諸国の官社を統轄した。その長官は神祇伯、次官は神祇大副と神祇少副となる。神祇伯は従四位下、神祇大副は従五位下、神祇少副は正六位上相当の位階とされる。