令和元年(2019年) 5月 NO.6

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地を紹介したいと思います。山川町編の第6回は「黒岩磐座遺跡」です。

黒岩磐座遺跡~忌部神社の元宮~

●場 所 - 吉野川市山川町忌部山

 聖天寺から「忌部山古墳群」に至る急険な道の途中には、忌部神社の元地「黒岩磐座(いわくら)遺跡」がある。これは、約10m四方の巨大な結晶片岩の岩盤上に、高さ約1m・長さ3mの「船型」とおぼしき巨石を置いたものである。古代日本人は、神はあるものに依り着く形で出現すると考えて来た。その神の依りつく対象の1つが石・岩・岩窟であり、その中で「磐座」とは、古代神霊祭祀(しんれいさいし)の施設とされ、「磐座」は、『古事記』(上巻)「邇邇芸命(ににぎのみこと)」項の「天孫降臨(てんそんこうりん)」条に「石位(いわくら)」、『播磨国風土記』神前郡(かんさきぐん)の条に「石坐(いわくら)」、『日本書紀』神代下第九段に「磐座」とある。また、日本人は古来より舟を「神の乗物」として信仰してきた。『古事記』の「鳥之石楠船(とりのいわくすふね)」「天鳥船(あめのとりふね)」、『日本書紀』にある「天磐船(あめのいわふね)」などの記述はその証であり、茨城県東茨城郡桂村の「岩船神社」の「岩船石」、京都府京都市「貴船神社」の「舟型石」の積石塚などに、舟を模った神の宿る石(磐座)の例を挙げることができる。
 黒岩の「舟型石」は、日本各地に海路を通じて進出した忌部族所以の信仰なのかもしれない。伝によると、室町時代の応永2年(1396年)の大地震までは、黒岩付近に社殿があり、祭祀が執り行われていたとされる。また、『忌部神社正蹟考』「山崎ノ史蹟ト博説」によると、黒岩の岩石の中には「忌部の力持の石」と呼ばれる拳の型が岩についているとの伝説があるが、現在のところ見あらたない。『忌部神社正蹟考』「山崎ノ史蹟ト博説」には、旧社地附近に平な場所が2ヶ所あって、古の社壇があったとされ、その後畠地となり、現在は東壇上・西壇上と呼ばれているとある。また、同書記載の「麻生家」の伝では、多数の土器や、忌部神社の古鏡・祭器が出土したとある。『阿波志』には「土器谷在忌部祠東南古陶器往々出」とあり、忌部神社の東南に、忌部が陶・土器を専門に製作した「土器谷」があったと記されている。

黒岩磐座遺跡への神域への入口に張られた注連縄

語句解説

★『忌部神社正蹟考』...
1942年(昭和17年)12月5日に池上徳平(1879~1943年/明治12年~昭和18年)が刊行。池上徳平氏は旧山瀬村(吉野川市山川町)生まれ。日露戦争の功績で単光旭日章を授賞。1920年(大正9年)に少佐としてシベリアに出兵。1930年(昭和5年)に大佐に任命される。待命後は、阿波郷土史会長、山瀬町忌部神社崇敬会会長などを歴任。業績として『山瀬町の伝説と史蹟』、『国幣中社忌部神社正蹟考』、『忌部族の研究』の著がある。この池上徳平の国幣中社『忌部神社正蹟考』の復刻番が、平成麁服貢進協議会会長、阿波スピンドル会長の木村悟氏が、池上氏の業績を後世に残そうと平成20年に復刻版を出版した。

★『阿波志』...
徳島藩の儒学者である佐野山陰が、藩命を受けて編纂に着手し1815年(文化12年)に完成した藩撰地誌。