令和元年(2019年) 6月 NO.8

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地を紹介したいと思います。第8回は「忌部山古墳群」です。

忌部山古墳群~忌部山型石室をもつ6世紀の後期古墳~

●場 所 - 吉野川市山川町忌部山

 聖天寺より登ること約680m、黒岩磐座遺跡、忌部の真立石を過ぎ、さらに山道を登った海抜230~242mの緩やかな尾根上には、古墳時代後期の横穴式石室をもつ5基の円墳群が造営され「忌部山古墳群」と命名されている。その直径は10m程で、5号墳はやや小さく直径約2.7mである。この古墳群の石室の平面形は、隅丸長方形で、天井部は石材を前後に持ち送って、中央部を高く作り出す構造を持っている。このような石室の作り方は、「忌部山型石室」と呼ばれ、山川町の「境谷古墳」の例も含め、旧麻植郡内に数多く造営され、阿波忌部氏との関係が指摘されている。
 古墳の石材には結晶片岩が使用され、石室の規模は、玄室との比較で3号墳が最小、2号墳が最大となる。1号墳は、長さ6.24m、玄室の規模は長さ3.36m、・高さ約2mで、石室閉塞の状況が残され、80余点の須恵器や玉類などが出土した。羨道部(せんどうぶ)の出土状況からは、閉塞後の葬送儀礼の跡が見られる。3号墳は、全長6.39m、玄室の長さ2.75mで石室閉塞の状況を残している。玄室の床面からは、銀環・銅環・勾玉・管玉・ガラス製小玉・須恵器の杯と蓋が出土した。また、羨道と玄室との境からは鉄製品が出土し、墳丘南裾には小竪穴石室が付属していた。4号墳は、玄室の長さ2.9m。4,5号墳は天井部を失っており、下半分だけが残されている。この古墳群からは、吉野川の雄大な眺めや徳島平野・阿讃山脈までをも見渡すことができる。ぜひ、忌部山のミニハイキングコースとして、聖天寺から遺跡散歩に行くことをお勧めしたい。
 この「忌部山古墳群」の存在から、麻植郡における忌部氏の活躍年代を6世紀代とする従来の歴史観は甚だ疑問であり、弥生期の川島銅鐸や上浦銅鐸、森藤銅鐸の出土状況や前期古墳の存在から見れば、相当古い活躍年代が考えられよう。旧麻植郡では、4世紀頃の古墳前期に川島町山田の丘陵に車輪石の副葬品をもつ「王塚古墳」が造営されている。鴨島町西麻植の東禅寺山古墳群では、明治14年(1881年)に発掘された石棺に朱の報告があり、身分の高い忌部族が埋葬されていたと見られる。同様に朱が見られる石棺は、山川町畑見丸山にも記録があり、これらも忌部族が造営した前期古墳と見られる。また、山川町川田の「塚穴古墳」は、竪穴式石室をもっていたとの報告がある。5世紀の古墳時代中期には、吉野川流域一帯に箱式石棺の文化が盛行し、麻植郡でも9個の存在が『麻植郡郷土誌』に記され、その代表は鴨島町「宮の南古墳」や山川町「住吉古墳」である。