令和2年(2020年) 4月 NO.20

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)山川町の伝承地を紹介したいと思います。山川町編の第14回は「戎神社の小祠」です。

戎神社の小祠と忌部の市

●場 所 - 吉野川市山川町宮島

 「山崎八幡神社」より約200m西の踏切の手前には、「夷(えびす)神社」の祠・御旅石・庚申塔が並ぶ小広場があり、かつて「忌部の市」が開かれていたと伝わる。その昔、忌部神社は、春秋二季の祭日に山崎の市(忌部の市)を開いていた。『三木家文書』には、正慶元年(1332年)11月、元弘3年(1333年)11月の阿波国御衣御殿人(みぞみあらかんど)契約状写に、歴代天皇の践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に麁服を調進していた忌部氏の末裔である三木氏を中心に2回にわたり契約を結び、毎年2月23日と9月23日の2回、山崎の市に会合して、評定は10人ならば7~8人の意見につき、5人ならば3人の意見につくと定め、氏人の団結を深めていたとある。
 「忌部の市」の存在は、『忌部神社所在地検注』にも、「又神社より西北の方三四丁程にあたりて人家二十戸許りある地を市名と呼へり、此は検地帖に市の西、市の東と註せる地の事にて、昔忌部の市だちありし所なりといへるは、正慶元年の文書に会合2月23日の山崎の市など見えたるに符合へり。」とある。

忌部の市跡より、「忌部の古井戸」跡と山崎八幡神社を見る
 忌部山の麓となる忌部郷は、剣山系の旧麻植郡の山間部と平野部、吉野川の上流域と下流域の接点にあたり、古代より物資を交換する場であったのだろう。「忌部の市」跡には、後に「夷(えびす)神社」が祀られていたが、いつしか「山崎八幡神社」境内に移され、「恵美須(えびす)神社」となった。旧戎神社跡には小祠が祀られ、「古夷」の小字が残されている。今、「市」が開かれていた時代の栄華は見るべくもないが、その小祠が寂しげにその歴史を語り継いでいる。また、この広場の東には、かつて「山崎七軒七方泉」とも呼ばれる「忌部七井戸」の1つがあったが、現在は、灌漑用水施設となっている。