令和2年(2020年) 12月 NO.29

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)山川町の伝承地を紹介したいと思います。山川町編の第17回は「阿波スピンドル株式会社」です。

阿波スピンドル株式会社 ~忌部神代の技術の継承~

●場 所 - 吉野川市山川町天神

 山川町天神には「阿波スピンドル株式会社」がある。スピンドルとは、高速回転しながら糸を撚(よ)り合わせる紡錘(ぼうすい)のことで、国内シェアの80%以上を占め、中国・台湾・韓国・タイ・インド等、世界16ヶ国に輸出している。
 当社は明治元年(1868年)に木村家が創業した。その木村家は、江戸期に綿花を栽培し、糸をつむぐ「錘(つむ)」を製作する鍛冶屋で、寛政年間(1780年)頃から「八鍋」と称して金物商を経営。商品を大阪の堺から仕入れ、吉野川中流の三ツ島(川島町学島)の浜へ荷揚げしていた。幕末に綿花栽培が盛行するにつれ、紡錘の製造も盛んとなった。現在の製造品目は、スピンドル・紡糸用ノズル・工作機械用及び精密機器のスピンドルユニット・ベアリング等が柱で、各種製品は、撚糸機械及び紡織機械メーカーと工作機械メーカーに納入されている。
 阿波スピンドル株式会社は、神代忌部の織物技術を継承したことで発展した。『麻植の伝説』には、「山崎は、昔から紡車を製造している。これは、昔忌部の神が麻を績み糸を紡ぐことから、ここに紡車を製造するものをおかれたと伝えられている。」とある。
 当地には『つむ(錘)は山崎、拝原車(はいばらぐるま) それで撚(よ)れぬは お手のから』という歌が残されている。山川町山崎(宮島)では忌部が「麻を錘む」紡車を製造し、美馬市拝原では糸車を作っていた。この山崎村の麻糸を紡ぐ起源は遥か神代の昔に遡るものと考えられ、忌部神社の由緒『天日鷲宮縁起』に次のようにある。

『また、此邸より紡車(ぼうしゃ)を製出せり。いにしへ忌部御神麻をうみ糸をつむぎ給ふより此郷ら製するものを■ぎて作らしめ給ふより伝はりて今も猶作出せり。是故に、山崎つむと称して諸国迄も称美して来ぬるは此ゆえあるへし。此紡車はもとより、剣・刀・鎧をはじめ、はり・釘に至る迄よろずの金物を作りはじめ給ふは、天目一箇神作り始給ひける。鍛冶を始め萬(よろず)の金物の細工をいたす人、此御神を祭るへし。』

 また、歌にある「拝原」(美馬市脇町拝原)が、忌部族の居住地であったことは「種穂忌部神社」の氏子区域が「拝原」にまで広がっていることからも窺える。上記歌に見る織物技術に必要な鍛冶遺跡は、2005年2月に美馬市脇町の「拝原東遺跡」で、弥生終末期の遺跡が確認され、集落跡や鉄製のヤジリ刃物を製作していた鍛冶炉跡、鉄器を磨くための砥石、つぼや瓶、皿といった土器も合わせ、約2万点の遺物が出土した。まさしく、『天日鷲宮縁起』にある「阿波忌部の鍛冶集団」の存在が確認できたのであり、その時期は、概要で述べた弥生終末期からの阿波忌部族による文化の伝播時期と一致するのである。そのことは、忌部山付近に遺物は未だ発見されていないものの、恐らくは、弥生終末期頃の織物技術をもった忌部族が居住しており、その技術者が「麻を撚り錘む」の伝承をもち、拝原の鍛冶集団と連携し、織物技術が編み出されたともの考えられる。