令和2年(2020年) 6月 NO.25

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の開拓に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地や史跡を紹介したいと思います。鴨島町編の10回目は、牛島の「稲垣神社」です。

「稲垣神社」~堤防の守り神・稲垣監物~

●場 所 - 吉野川市鴨島町牛島字中桑上473
●祭 神 - 倉稲魂命

 忌部の麻の市伝承をもつ市瀬橋を渡ったすぐ北側に、ひっそりと「稲垣神社」が祀られている。『徳島県神社誌』によれば、創立年代不詳。祭神は倉稲魂命。『麻植の伝説』に、次のように由来がある。
 吉野川に現在のように堤防がなかった時代は、麻植塚・桑上・原・岸の下付近は、吉野川から氾濫した水が飯尾川に流れ込み、洪水に毎年見舞われ農作物の被害が大変であった。里人はこの水を堰き止めて飯尾川へうまく流せば、安心して農事に励むことができる。そのため、岸の上から東・南にかけ曲尺(さしがね)形の堤防を築いた。すると、水が溜って麻植塚付近の田畑まで浸水するので、麻植塚の農民はいつの間にか堤防を切り崩し、麻植塚と桑上の農民は絶えず反目し合っていた。
 稲垣監物は、その当時牛島郷に配属された武士で、現在の「稲垣神社」付近に住居を構え、良吏との噂で農民から尊敬されていた。監物はこの農民の苦境を見かね、築堤の許可を奉行に願い出たが、麻植塚に害を及ぼすとの理由で許可が降りなかった。そこで宝暦3年(1753年)9月8日の夜に監物は、奉行所の許可なく独断で、桑上の農民を集めて堤防工事を完成させた。そして、それぞれ挨拶をして帰った農民の後ろ姿を見送り、完成したばかりの堤防に端座し、懐から一通の書状を取り出して膝の下に敷き、切腹し果てた。書状には、許可なく工事を行い、上を軽んじた罪をわび、死して堤防を守る旨がしたためてあった。遺書の中味が分かってからは、この堤防に手を触れる者はなくなった。桑上・原部落の人々は監物の家の庭に祠を造り、「稲垣神社」と呼び豊作の守り神として祀った。吉野川の堤防ができてから川の流れも変わり、元の堤防は田畑に整地され、中央部は国道敷となりすっかり変わってしまったが、桑上の人は今も監物の遺徳を忘れてはいない。(「麻植の伝説」(石が語る阿波)より)。
 境内には、監物堤の石碑が建立されている。