いよいよ新元号が発表される時が近づいてきました。また、阿波忌部直系の三木信夫氏が住む美馬市木屋平字貢では、麁服の調進に向け、麻畑の整備が整い、4月に麻の種まきが始まります。そのような大切な時期を迎え、旧麻植郡山川町出身で東京の至誠会会長である高尾義彦氏に執筆していただきました。

秋の大嘗祭に向けて

東京都会員 高尾 義彦

【高尾義彦氏のプロフィール】
1945年、徳島県山川町生まれ。1969年に毎日新聞入社。社会部司法キャップ、東京本社代表室長、常勤監査役など歴任。著書は『陽気なピエロたちー田中角栄幻想の現場検証』『中坊公平の修羅に入る』など。俳句・雑文集『無償の愛をつぶやくⅠ、Ⅱ』を自費出版。


披露される麁服(平成2年)三木家資料
 『祖先は忌部族』と我が家の古文書には記されている。その阿波忌部最大の任務が、天皇即位に伴う大嘗祭に「麁服(あらたえ)」と呼ばれる麻織物を調進することで、その準備が徳島県の高地・木屋平で始まっている。
 古代史研究家(忌部文化研究会会長)の林博章さんが15年の歳月をかけ日本地域社会研究所から出版した本書(3,240円)はその歴史を実証的にたどる。忌部は大和朝廷で中臣氏とともに祭祀を司り、同時に農業・土木などの技術集団として朝廷を支えてきた。中臣氏との勢力争いに敗れ、一時は歴史の舞台から消えかかったが、大嘗祭で麁服を調進する役割は『古語拾遺』などの記載通り、忌部に限られ、最近では当主、三木家が大正、昭和、今上天皇に調進してきた。
 大嘗祭は本来新嘗祭で、天皇即位時に限って大嘗祭として執り行われる。稲や粟など日本人の食を支えてきた自然への感謝を表明し、同時に天皇が正統性を受け継ぐ儀式である。
 考古学的知見も含めその歴史を見直すことは、未来への一歩を踏み出す契機になると林さんは強調する。最近、徳島では前方後円墳の原型や、祭祀などに使った水銀朱を生産した縄文期の遺稿が発掘され、歴史の再構築が注目される。本書は長いスパンで日本の歴史を考える好著だ(よ)』

 これは、自分がかつて新聞記者として働いた毎日新聞の朝刊「BOOK WATCHING」欄に掲載すべく執筆した原稿である。ところがこの欄で扱う書物は、発行後3か月以内というルールが定められ、掲載を依頼したのが今年2月だったため、対象外ということになって日の目を見なかった。
 あれこれ交渉の末に、「広告」の扱いで3月13日の夕刊にこの本の紹介が掲載されることになった。この紙面は東京本社管内に限られるため、この日の夕刊100部を確保し、せめてものPRに、と関係者にお送りした(コピー参照)。

 数年前から、忌部研究に取り組む林さんが上京するたびに、話を聞き、知識を深めてきた。その途中経過は、拙著『無償の愛をつぶやくⅡ』に「天皇譲位と忌部族」(初出は同人誌「人生八聲」2017年夏季号)として収録したので、ここに再掲したい。

 ――「古代文化の揺籃地 忌部(いんべ)の里の丘の上(え)に……」。母校である徳島県立川島高校の校歌には、こんな歌詞がある。在校当時、入学式や卒業式で歌い、最近では同窓会の締めに必ず歌われるが、卒業後50数年、「忌部」の意味を正確に知っていたか、ということになると、心もとない。
 「忌部」とは「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」を意味する。歴史をひもとけば、「阿波忌部」と呼ばれる氏族は、弥生後期から古墳前期(3~4世紀)にかけて四国・吉野川流域に勢力を展開した。大和朝廷の祭祀を司り、農業土木技術、衣食住の生活文化技術を関東などに広め、最近の研究では、古日本文化の源流を形成したと位置づけられるようになっている。
 その祖神は「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」として「古語拾遺」に記されている。「天太玉命」は古事記、日本書紀にも登場し、天照大神が岩戸の中に姿を隠した「天の石屋戸」神話でも重要な役割を果たしている。さらに、かつて「紙漉き」を業とした我が家の古文書には、天太玉命に従う四柱の神のひとつとされる天日鷲命(あめのひわしのみこと)により製紙技術がもたらされたとの記載があり、我が家も先祖は忌部であったと推定される。
 その忌部の伝統を今も守る「三木家」の住宅を2017年4月2日に訪ねた。剣山に近い木屋平村の標高552㍍にある「三木家住宅」は、国指定の重要文化財となっている。木造茅葺屋根の建物の骨格部分の造成は、江戸時代初期にさかのぼり、建築後400年を経過していると、炭素年代測定で推定されている。
 周辺に植えられた数十本の枝垂れ桜はまだ開花せず、前日には雪が降ったそうで、剣山山系の近くの山や神社の屋根に雪が残っていた。
 案内役は、忌部研究の第一人者で、「倭国創生と阿波忌部」「日本の建国と阿波忌部~麻植郡の足跡と共に~」などの著書がある林博章氏(51)にお願いした。徳島市内から車で三時間近く、吉野川の上流に向かい、くねくねと曲がる細い山道を走って、「三木家住宅」にたどり着いた。
 林さんは、一般社団法人「忌部」文化研究所を2018年に立ち上げる計画の中心となって精力的に活動している。私自身も、高校一年後輩の高野啓子さんを通じて、林さんからこの研究所設立への協力を求められ、彼が上京した際に二度ほど話を聞いた縁で、「忌部」の世界にのめり込むことになった。
 この日は、冬季には大阪在住の28代当主、三木信夫さん(81)が、前日に帰宅して出迎えてくれた。三木さんは桜の木で四角に囲った框の囲炉裏に火を入れて、林さん、高野さんら我々一行を歓待してくれた。樫の木が勢いよく燃え上がる炎を見ながら、濁り酒を酌み交わして、忌部にまつわる話を聞いた。
 皇室と忌部の関係を示す重要な事業として、天皇即位に伴う大嘗祭に、阿波で育てた麻の繊維で織った「麁服(あらたえ)」という布を調進する伝統が代々、受け継がれている。三木家住宅には鎌倉時代から南北朝動乱の時代の古文書類が保存されている。
 併設の資料館には、麻蒸し桶、麻舟、機織り機などが展示され、現天皇即位に伴う1990年11月の大嘗祭では、この地で織られた麁服を、我がふるさとである山川町の忌部神社を通じて供納した記録や写真も展示されている。
 この時の麁服調進については、毎日新聞社会部の若手だった丸山雅也記者(その後、東京本社代表室長)が現地を訪れて取材しているが、三木さんはそのことをよく覚えていてくれた。
 その取材は連載「即位の礼と大嘗祭4」(1990年11月2日付=写真)にまとめられ、「麁服調進の伝統の根源は平安時代の法令集、延喜式にさかのぼる」「民間の協議会で2,000万円以上の資金を集めた」「木屋平村の畑で4月に種を播き7月の刈り入れまで、村民が24時間体制で見張った」などの記載がある。忌部神社で女性が麁服を織る様子を伝えた写真も添えられている。
 当時、地元で調進の事業を中心になって進めたのが母校、川島高校の同窓会組織である「至誠会」の会長を務めた木村悟さん(17年2月死去、享年84)。木村さんはこの時織られた麁服の残り布を使って、母校の校旗・校宝となっている「至誠無息」の旗のレプリカを3つ、作成した。そのうちの一つは東京至誠会会長である私の自宅に保管され、毎年秋の同窓会では会場に持参して飾る。
 「至誠無息」の揮毫は元帥・海軍大将だった東郷平八郎で、この言葉の由来となる校歌の別の一節を紹介すれば、「心ままなる人の世の 蓬を正す麻として 至誠の道を一筋に」となっている。
 天皇が生前退位の気持ちをにじませたお言葉を発表されて以来、次期天皇の即位の時期や新元号の検討が政治課題になってきた。忌部の当主である三木さんにとって、今回も大嘗祭への麁服調進の事業をつつがなく進める責任があり、協議会組織などの準備が急務。地元あげての協力が必要になる。
 麻は忌部族のシンボル的な植物であり、三木家住宅の帰りに訪ねた忌部神社には麻の葉の紋章が飾られていた。麻に縁の深い土地であることは、十年前に、ふるさとの山川町と鴨島町、川島町、美郷村が合併して吉野川市が誕生するまで、この地域は「麻植(おえ)郡」と呼ばれていたことでも理解いただけると考える。麻を植える、という古来の農業に由来する名前で、合併時には「麻植市」の名称を冠すべきだ、という意見も強く、私はいまでも「麻植」に強い愛着がある。
 江戸時代以来、「ジャパン・ブルー」として有名になった藍染は、本来、麻布を染めるために開発されたという。東京五輪・パラリンピックのシンボルマークにも、藍色が使用され、さらに注目されている。
 そんな麻をめぐる動きの中で、残念なニュースもあった。徳島新聞が17年2月9日、「吉野川市が麻栽培復活断念」と報道したことを、高校同級生の松島ひで子さんが教えてくれた。
 吉野川市は、麻栽培産業の復活を、人口減少対策の指針とする戦略(15~19年度)に位置づけ、推進協議会を立ち上げて栃木などの先進地視察、シンポジウム開催など準備を始め、生産者の人選と育成を進めようとしていた。ところが鳥取県で大麻栽培が摘発され、種子などの入手が困難になったほか、政府も麻栽培の許可を厳しくする方針を打ち出し、断念に追い込まれた。
 栃木県にある大麻博物館発行の「大麻という農作物」によれば、副題の「日本人の営みを支えてきた植物とその危機」の指摘が正しい認識なのだが、無理解あるいは誤解によって、日本の麻産業は厳しい環境に置かれている。
 古来、日本で栽培されてきた麻、つまり大麻は、「違法な薬物」として使用される習慣がなかった。大麻は「薬用型」「中間型」「繊維型」に分けられ、日本では「繊維型」が主要産物だった。大麻にはTHC(テトラヒドロカンナビロール)という向精神作用をもたらす成分が含まれるが、「繊維型」にはほとんど含まれず、長く和紙や衣料品の素材として日本人の生活を支えてきた。
 その貴重な麻が、危険な麻薬扱いされるようになったのは、第二次大戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による摘発がきっかけだった。マリファナはインド大麻から作られ、日本の大麻とは別物とされていたのが混同され、さらにベトナム戦争に参加した米軍兵士の間で流行したことを背景に、規制強化の道をたどった。
 現在、日本で麻が生産されている地域は、生産量でみると、栃木、長野、三重の順。「繊維型」としての麻を徳島で生産しようとした吉野川市の計画が頓挫したことは、残念でならない。誤解を解いて、麻に縁の深い地で麻の栽培が再開されることを望みたい。
 忌部族の農業技術は麻だけでなく、粟や穀(かじ)などを植え、その技術を広めていった功績があげられる。それを証明するため、林氏は千葉県や栃木県などを幅広く調査し、千葉県に住む忌部の末裔を徳島に招いて歴史の糸を結ぶ作業を進めている。
 このうち、千葉県酒々井町の「大鷲神社」には、「阿波の国から麻・木綿(ゆう)の産業が伝えられた」などの記録がある。「安房」「粟」は阿波に由来し、粟の栽培技術も伝えられた。栃木県小山市の「安房神社」など関東各地に、忌部の足跡が確認され、農業技術集団としての活動が歴史的事実として確認されつつある。
 忌部が歴史の表舞台からやや下がった位置に置かれた理由は、大まかに言ってふたつある。ひとつは大和朝廷以来、皇室を支えてきた氏族だったが、中臣氏との権力争いで後塵を拝する結果になったことが考えられる。もう一つは、さらに時代が下がって、阿波藩に蜂須賀家が封じられて以降、外部からやってきた蜂須賀家が、地元の有力氏族である忌部の力を恐れ、江戸時代以来、忌部の勢力を削ぐ政策がとられてきたという。
 歴史学は、権力者の歴史を正史とする。日本の歴史学も例外ではなく、支配者側の論理に従属してきた側面があり、林氏らは古文書や阿波の国に存在する古墳、忌部神社の歴史など実証的な観点から、従来の歴史学に異議を唱え、ようやく忌部の存在が正しく認識され始めたといえる。
 同時に、かつての忌部の地では、過去を振り返るだけでなく、新たな動きが起きている。林さんたちが立ち上げの準備をしている「忌部」文化研究所の賛同者たちは、「剣山系の急傾斜地農業システム」を世界農業遺産として登録させるための地道な準備を進めてきた。
 地元住民や林さんたちの啓発活動が実を結んだ形で、農林水産省は17年3月、急傾斜地農業を日本農業遺産に指定するとともに、世界農業遺産候補の一つとして申請することを承認した。徳島県西部の勾配15度を超える急傾斜地で引き継がれてきた農業は、ソバ、キビなどの雑穀、白菜、大根などの野菜、あるいは葉タバコなどの生産に適する農地として、古くから開発されてきた。急傾斜地に段々畑を作るのではなく、斜面をそのまま生かして、土が流れ出さない工夫などを施している。
 森林を焼いて畑地を生み出す「焼き畑農業」が古来からの手法として伝えられ、これは忌部の発達した農業技法にさかのぼることが実証されつつある。急峻な山の斜面、「ソラ」と呼ばれる天空に近い集落で営まれる農業がいま注目されており、地元では「徳島剣山世界農業遺産推進協議会」が結成され、推薦運動を活発化させている。
 「忌部が担ってきた農業文化は、共生、共助、自然循環などの思想が根底にあり、持続可能な社会の実現に向けたモデル的な要素が認められる」と林教諭はみる。忌部の歴史をさらにさかのぼれば、中国・雲南地域やさらに西方の大陸にもルーツを求め得ることが考えられ、日本の歴史を根底から見直すスケールの大きな研究の可能性を秘めている。この「忌部ロマン」に大いに期待して、自分なりに協力できることを模索してゆきたいーー

◇      ◇      ◇

 この原稿から2年近くが経って、剣山系の傾斜地農法は世界農業遺産に指定され、国際的にも注目されるようになった。同時に、天皇即位が5月に迫り、麁服調進の動きも具体化してきた。
 今年1月下旬、大阪で開かれた母校川島高校の近畿地区同窓会で、木屋平出身の松家和由さんから、「特定非営利活動法人あらたえ」(西正二理事長)が麁服調進の費用を捻出するため募金活動を進めていることが報告された。30年前の今上天皇の場合は2,700万円の出費だったが、今回は「大麻」に対する警戒感から、防犯カメラの設置など厳しい管理を要請され、650万円ほど費用がかさむという。
 趣意書によれば、このNPО法人は、普段から三木家住宅や周辺公園の保護をはじめ三木家資料館の管理運営などを目的として活動している。振込用紙などとともに、「大嘗祭 一代一度の誇り」「織物の産地 伝統守り」と見出しがつけられた毎日新聞記事(18年12月9日付け)コピーも同封され、木屋平の取り組みが紹介されている。
 帰京後、松家さんに頼んで趣意書などがセットされた封書を300通以上送ってもらい、各方面に協力をお願いした。最初に、川島高校の関東地区同窓会である東京至誠会の主だった方々にお願い文を添えて郵送し、同様に自分が会長を務める東京大学徳島県人会の親しい会員にもお願いした。徳島出身の経済人で作る「徳島クラブ」の例会にも持参したほか、2月23日には館山市で開かれた講演会でも参加者にお配りした。
 この講演会は「大嘗祭と阿波忌部と安房館山」をテーマに、林さんたちが講演した。阿波忌部が房総半島に上陸して農業技術をもたらし、この地域一帯を開拓していった歴史などを振り返り、歴史を見直す試みで、150人もの参加者を集めて盛大に開かれ、翌日には安房神社などゆかりの地を訪ねる日程も組まれた。私自身も前日に安房神社を訪れ、その静謐な空気に感動した。
 木屋平のNPО事務局からいただく寄付者名簿には、東京や館山の方々の名前が次第に増えて、心強く、感謝の気持ちを強くしている。すでに完成した麻畑では四月の播種から重要な栽培の作業が始まる。
 82歳の三木信夫さんがその先頭に立っていることを思えば、微力ながら協力を、との気持ちが募るのは自然の成り行きだった。林さんの著書により、忌部への理解が広まることを期待して、今後も、寄付のお願いなど麁服調進のお手伝いをしたいと思っている。
 本来なら生まれ故郷であり忌部神社がある山川町で木村悟さんの遺志を継いだ阿波スピンドル社長、木村雅彦さんたちが進める運動に協力しなければならないが、前回同様、最終的には地域を超えて運動が一体となることを願って、木屋平の「あらたえ」を応援することをお許しいただきたいとお断りしておく。