式内社「大御和神社」(府中の宮)の由緒

忌部文化研究会 会長 林 博章







 徳島市国府町府中(こう)には、「大御和神社」が祀られ、地元で「府中の宮(こうのみや)」さんとして親しまれている。当地には古代阿波の国府(政庁)が置かれ、阿波の中枢を担っていた。その総鎮守として当社は歴代国司の崇敬を受けていた。古代国府跡と目される「観音寺遺跡」からは、日本最古、7世紀代の「難波津」(万葉仮名)木簡、日本最古の「国守」表記や税制、論語木簡などが出土し、数ある国府の中でも畿内と同様の先進地であった。
 由緒には、「本社は国璽の印、及び国庫の印鑰を守護せられし神徳により印鑰大明神と称した。「印鑰」(印は国璽、鑰はカギのこと)、即ち国司の官印と諸司の蔵の鍵が紛失しないよう祈り、神社内に保管した。」とある。日本に前例なき本殿の「鍵」の神紋は神社の威厳を現在に伝えている。また、「文武天皇(702年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と伝え、拝殿屋根には漆喰に菊の紋章瓦が据えられている。平安初期の『延喜式』神名帳の阿波国名方郡条には「大御和神社」とある。江戸期の『阿波志』に「大御和祠延喜式内小祀と為す。府中村に在り即ち大己貴命今府中宮と称す。又印鑰と称す」。『阿府志』に、「大御和神社同郡府中村にあり府中は古の夷の都なり、俗に印鑰大明神と伝ふ。~按大和国三輪と同神也」と記されている。その氏子域は、府中・中村・観音寺・盛町・池尻・日開・敷地に及ぶ。なお、同じ「印鑰神社」は、①熊本県八代市鏡町、②石川県七尾市府中、③福岡県久留米市、佐賀県佐賀市大和町、長崎県壱岐市勝本町などが知られている。


 ヤマト王権の発祥地、奈良県桜井市の三輪山の麓には大和国一宮、名神大社である「大神(おおみわ)神社」(三輪明神)が祀られている。同地の「纏向遺跡」からは、鮎喰川流域の東阿波式土器が数多く出土。吉野川南岸中下流域には三輪山型説話が点在する。よって、「大御和神社」は大和国の「大神神社」(三輪明神)の元社であった可能性が想定できるだろう。


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