「神戸市・兵庫津の視察報告」

 19世紀に盛行した北前船は、主に北海道の鰊粕(魚肥)や昆布を日本各地に運び、日本経済に大きな影響を与えるとともに日本文化を育んだ。阿波忌部は黒潮航路で鳴門を出発し、関東を拓いた。一方、日本海側にも進出し、数多くの痕跡を各地に残している。その忌部航路の江戸後期版が北前船である。鳴門「撫養湊」は、古代から阿波の主要港で、北前船の時代には、忌部の時代と同じく東西海運の結節点として繁栄した。特に北海道の主要商品である鰊粕(魚肥)を西日本で一番購入していてのは撫養湊であった。その魚肥は、吉野川流域の藍栽培に使用され、ジャバンブルーを生み出す原動力となった。

 現在、北前船の船主集落や寄港地が次々と日本遺産に登録されている。撫養湊なくして北前船は歴史的にも語れず、研究所では、徳島県の活性化のためにも、撫養湊の日本遺産登録に向け活動する予定にしている。

 その研究活動の一環として、8月に、林博章博士は、神戸市の兵庫津を視察した(神戸市)。兵庫津は、大阪とともに北前船の拠点港であった。その近辺は、六甲連山によって北西の季節風が遮られ、また和田岬によって西からの波浪が防がれ、さらに水深と投錨に適した海底の砂に恵まれて天然の良港が形作られていた。そのため、瀬戸内海の交通の要衝として、また、外交の窓口として歴史に名をとどめている。

 兵庫津の前身は、大輪田泊である。平安末期に平清盛に仕えた阿波の田口成良は、平家の有力家人で1173年(承安3)に清盛の命で大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易を担当したと伝わる。室町期には兵庫北関が置かれ、1445年(文安2)の兵庫北関入船納帳(写真右上)には、撫養を経由して阿波藍や木材が運ばれた記録がある。



写真は、兵庫県立兵庫津ミュージアム

 戦国時代には、阿波の三好長慶(写真右下)が当地を支配し、阿波と畿内とを結ぶ重要な港となった。北前船の時代には、高田屋嘉兵衛が択捉航路を開き、北海道物産交易の基地としても大いに賑わった。その高田屋嘉兵衛は、徳島藩の人物であった。兵庫津は、北前船の日本遺産に指定され、兵庫県立兵庫津ミュージアムが建てられている。撫養湊の豪商・廻船問屋である山西家の菩提寺となる「仙龍寺」には、兵庫津から住徳丸徳治郎・住正丸傅助らが天井絵を奉納している。