「福井県南越前町の視察報告」

 19世紀に盛行した北前船は、主に北海道の鰊粕(魚肥)や昆布を日本各地に運び、日本経済に大きな影響を与えるとともに日本文化を育んだ。阿波忌部は黒潮航路で鳴門を出発し、関東を拓いた。一方、日本海側にも進出し、数多くの痕跡を各地に残している。その忌部航路の江戸後期版が北前船である。鳴門「撫養湊」は、古代から阿波の主要港で、北前船の時代には、忌部の時代と同じく東西海運の結節点として繁栄した。特に北海道の主要商品である鰊粕(魚肥)を西日本で一番購入していてのは撫養湊であった。その魚肥は、吉野川流域の藍栽培に使用され、ジャバンブルーを生み出す原動力となった。


 現在、北前船の船主集落や寄港地が次々と日本遺産に登録されている。撫養湊なくして北前船は歴史的にも語れず、研究所では、徳島県の活性化のためにも、撫養湊の日本遺産登録に向け活動する予定にしている。
 その研究活動の一環として、9月に林博章博士、10月には松島代表理事等が日本遺産に指定されている福井県南越前町河野集落をを視察した。
 越前国府の武生と京への物資輸送の拠点だった敦賀とを結ぶ海運で栄えたのが福井県南越前町の河野(旧河野村)である。河野は、越前海岸の南端、敦賀湾のほぼ入り口に位置し、「海とともに生きてきた村」であった。山際の狭い細道は「河野北前船主通り」と呼ばれ、五大北前船主の一人、右近家や国重要文化財「中村家住宅」など、かつて栄華を誇った船主たちの屋敷が並んでおり、日本遺産に指定されている。その右近家と取引していたのが、撫養の廻船問屋・山西家と天羽家であった。右近家には山西庄五郎と天野屋兵右衛門が贈呈した藍染めの手拭が展示されている。『北前船船主の館 右近家』(総合案内)によれば、阿波の右近家取引先に徳島の久住九平・金沢仁兵衛・森六郎・天羽兵吉、撫養の山西庄五郎・桶屋茂三郎・近藤利平の名が記録されている。瀬戸内では下関に次ぐ多さであった。