邪馬台国と水銀朱と阿波

 弥生中期から終末期に至る水銀朱の生産を支えたのが、阿南市水井町の「若杉山遺跡」であった。3世紀の『倭人伝』には、邪馬台国には「其の山に丹(たん)あり」として、丹を産出する山があると書かれるが、「若杉山遺跡」がその最有力地となる。水銀朱を用いた卑弥呼による鬼道の演出に、阿波の水銀朱は欠かせない存在であったに違いない。「若杉山遺跡」は、1世紀初頭から3世紀後半にかけての遺跡で、採掘が最も活発であったのは2世紀後半から3世紀前半。まさしく卑弥呼の時代、邪馬台国の時代と重なっている。2018年(平成30年)2月には水銀朱を採掘する日本最古の坑道跡の横穴が発見されたとの新聞発表(阿南市・県教育委員会)があった。吉野川下流域を中心に展開されたその水銀朱祭祀は、『魏志倭人伝』の報告どおりに展開されていた。そして「若杉山遺跡」で採掘された水銀朱は、畿内各地へと搬出された。その積出港となった遺跡は、板野郡板野町大寺の「黒谷川郡頭遺跡」で、それは弥生後期後半からの大規模な朱の精製集落でもあった。
 2017年(平成29年)2月には、「若杉山遺跡」の近く、阿南市加茂町の「加茂宮の前遺跡」(弥生中期~古墳前期、1~3世紀)で、水銀朱の原料となる辰砂や精製の石器が発見され、それは水銀朱の精製工房跡であった。若杉山で生産された辰砂は鮎喰川下流域から板野郡の郡頭遺跡に運ばれ、そこから畿内へと搬出されていったと考えられている。



縄文期における国内最大の水銀朱精製遺跡「加茂宮ノ前遺跡」


 2019年(平成31年)2月19日に徳島県教育委員会、及び徳島県埋蔵文化財センターの発表によると、阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀に使用された赤色顔料である水銀朱を生産した縄文時代後期(約4000年前)の石臼や石杵が300点以上。また、水銀朱原料としての辰砂原石が大量に出土した。水銀朱の関連遺物の出土量としては国内最多、生産拠点としては国内最大かつ最古級であることが確認された。石臼の大きいものは直径30㎝、石杵は約10㎝、生産した水銀朱を貯める土器や耳飾りはじめ関連遺物は1000点以上。これまで縄文期、国内最大の水銀朱生産の拠点とされた三重県の天白遺跡、森添遺跡などは数十点の出土物に留まる。「加茂宮ノ前遺跡」は、その数十倍の規模となる。また、縄文後期の竪穴住居跡、石を円形状に並べた祭りや儀式用とみられる遺構300点以上が見つかっている。さらに畿内で縄文期から信仰された阿波の結晶片岩製の石棒が数多く出土していることも興味深い。
 阿波地域は、縄文後期より弥生時代、そして邪馬台国時代にかけて継続的に水銀朱の精製・生産・祭祀を行った日本における水銀朱祭祀の先進地であった。