邪馬台国と水銀朱と阿波

 弥生中期から終末期に至る水銀朱の生産を支えたのが、阿南市水井町の「若杉山遺跡」であった。3世紀の『倭人伝』には、邪馬台国には「其の山に丹(たん)あり」として、丹を産出する山があると書かれるが、「若杉山遺跡」がその最有力地となる。水銀朱を用いた卑弥呼による鬼道の演出に、阿波の水銀朱は欠かせない存在であったに違いない。「若杉山遺跡」は、1世紀初頭から3世紀後半にかけての遺跡で、採掘が最も活発であったのは2世紀後半から3世紀前半。まさしく卑弥呼の時代、邪馬台国の時代と重なっている。
 3月2日の徳島新聞の新聞発表で、この坑道は弥生時代後期(1~3世紀)のもので国内最古と判明。坑道は太龍寺山の標高約250m地点にあり、奥行きは約13m。高さは約70~120cm。坑道から南東70mの平地では露天掘りの跡も確認されたという。阿南市はこの一帯を国指定史跡に指定するよう文化庁に申請したという。
 令和の新時代に移行するにあわせ、厚いベールに包まれていた古代阿波の歴史が表舞台に登場しようとしている。この結果、邪馬台国所在地論争は、阿波地域を抜きにしてはもはや語ることができないことになりつつある。