令和2年(2020年) 4月 NO.18

日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”

忌部文化研究会 会長 林 博章

 会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)山川町の伝承地を紹介したいと思います。山川町編の第13回は「忌部の矢竹」です。

忌部の矢宮(忌部の矢竹)

●場 所 - 吉野川市山川町宮島

 「山崎八幡神社」すぐ北を東西に走るJR線路を越えた畑地の一角には、中央に小祠を祀る約5m四方の小さな竹藪があり、「忌部の矢竹」、或は「矢宮」と呼ばれ、「かつて忌部氏が矢を作るのに用いた場所であった。」と伝えられる。阿波忌部の祖神・天日鷲命は、天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)の別称をもつ。弓矢の弦には良質の強靭な繊維の麻が必要なことから、天日鷲命は日本の弓矢を創始した祖神と各地で伝承される。「矢を作るのに用いた」との伝承は、「忌部の矢磨石」と併せ、古代忌部郷に降りかかる災禍や魔を祓うために執り行われる「弓矢の神事」と関係し、その神事に用いられる矢は、この「矢竹」が選ばれたのではないだろうか。
 『忌部神社正蹟考』には、「この竹は普通の竹にはあらず、如何にも矢に適する竹である。この矢竹に祀られた祠は、かつて三宅三体妙見神社と呼ばれていたが、今は三宅豊国(みやけほうこく)神社と言い、忌部神社の神官であった麻生家(村雲家)の“忌部阿造麿”の霊を祀っている。」と記されている。なお、『麻生家系図』によれば、この忌部阿造麿の幼名は宮千代で、明徳元年(1390年)に生まれ、従五位を授けられ、永享7年(1435年)6月22日に死去した。」と伝えれる。
 「忌部の矢竹」の西脇には、かつて「山崎七軒七方泉」と呼ぶ「忌部七井戸」の一つが戦前まであったというが、残念ながら埋められてしまい、その面影を見ることはできない。